信楽から吹いてくる風  伊藤喜彦

信楽から吹いてくる風
伊藤喜彦(いとうよしひこ)
 
 コレクションの整理をしていたら、ふと思い出のある品物に目が止まった。同じ場所にしばらく置いてあったので埃がかぶっている。陶の作品なので丁寧にブラシで洗うと、再び美しく輝きを放った。
 陶は割れる心配はあるが、直射日光にも耐え、極寒でも凍らず、汚れれば水で洗う事もできるので、耐光性のない絵画や湿度管理の難しい木彫作品に比べるとコレクションとしては扱い易い素材でもある。

 私は滋賀県の信楽町という焼き物の産地で、陶芸作家の元で3年住み込みの修行した後に、信楽学園という知的障害のある児童のための県立の全寮制の施設「信楽学園」で2年間、窯業訓練の担当として働いていた。

 この作品はこの頃に頂いたものだ。もう20年前になる。伊藤喜彦さんが制作した土鈴で、振るとチリンチリンといい音がする。

 伊藤さんは1934年に生まれた。55年に信楽青年寮(成人の知的障害のある人達のための入所施設)が開設されると入所し、05年に亡くなるまで過ごした。
 
 信楽青年寮は地域の中で障害のある人達が働き、暮らして行くという事を古くから実践しているところで、信楽の町工場に青年寮の人達が働いている姿をしばしば見かける。伊藤さんも同じように町工場で働きに出ており、ブツブツ独り言を話しながら工場に通っている姿を毎日のように見かけた。

 伊藤さんは1980年頃から陶の作品を作っていた。絵本作家の田島征三さんが、伊藤さんの土鈴と出合い、それが「しがらきから吹いてくる風」(90年/シグロ制作/91分)の制作につながった。この映画は信楽の町で知的障害のある人達がおおらかに働き生きている姿を映し出したドキュメンタリーの傑作で、伊藤さんの豪快な制作の姿もしっかり記録されている。

 伊藤さんについて語られたもので、私が気に入っているのが、田島征三さんの著書「ふしぎのアーティストたち」(労働旬報社)で書かれた伊藤さんの自己紹介の様子だ。田島さんの来訪に伊藤さんは、トイレの隣に特設された個室の中から、「どこの誰だかわからんけど、お土産も持たずにアホな顔ぶらさげたのが来とるようやなあ。まことにもって、どうもすいません。わたしはナサケナイ、シガケンのシガラキのシガラキセイネンリョウの精神の心をググーッと押さえて、無視して土鈴つくってますねん」と挨拶する。

 精神をググーッ押さえてと言うわりには、伊藤さんには奔放で豪快な逸話が多い。

あさひかわ新聞2012年7月10日発行 工藤和彦「アールブリュットな日々」より>

脳内ロマンス 吉田重人

 

 
紙/水性ペン
216mm×165mm

  ラポラポラの活動を続けていると、とても不思議な日がやってくる。まるでパラレルワールド(異次元の世界)が開いてしまったように、、、。

 一週間前、事務所に聞き取りにくいか細い声で「吉田重人」と名乗る方から電話があった。「絵を描いているから、見て欲しい」という内容だった。
 これまで、このような依頼の電話は幾度もあって、作者である本人が「見て欲しい」という作品は、見せて頂いても私が興味を持てるケースはほとんどない。正直言って気乗りしなかった。とは言うものの、「見て欲しい」というご本人のご希望を損ないたくはないので、必ず拝見させて頂く。っだがこの数日間は仕事の都合もあって、すぐにお伺いする事が出来なかった。すると吉田さんからは毎日、電話が来るようになった。とても聞き取りにくいのだが、電話の内容は描いた作品の説明のようだった。きっと拝見に行かなくては気が治まらないご様子かと思い、急遽お伺いした。

 吉田さんは旭川にお住まいなので、車で20分とかからないうちに指定する場所に着いた。そこには年配の方がスーツを着て立っておられたので。「吉田さんですか」とお訪ねすると、小さくうなずかれた。電話のあの積極的な印象はまるでなく、何とも不思議だった。導かれるまま吉田さんの自室に通された。テーブルの上には30枚ほどの作品が置かれていた。

 一枚一枚作品を拝見させて頂く。一気に吉田さんのイメージしている世界観が作品から伝わって来て、その世界にグイグイ私を引きつけた。このワクワク感は久しぶりだった。

 60歳になる吉田さんは、フランス映画などの恋愛をテーマにしたものがお好きなようで、作品にもロマンスの雰囲気が漂っている。「頭の中にあるイメージを紙に写している」と言われているように、描かれた作品は映画のワンシーンを切り取ったかのように物語性に富んでいる。

 写真の作品だが、中央に全裸のブロンド女性が立っていて、その背後には鏡があり、女性の後ろ姿が映っている。また、鏡には絵筆を持った画家の姿が小さく描かれているので、この女性がヌードモデルである事が分かる。脱いだ服や下着が叙情的でこの画家とモデルとの関係性を漂わせている。印象的なのは女性の身体表現。赤と緑の入り交じりとハートマークが何とも奇妙だ。

 吉田重人さんの脳内ロマンスの投影ということは、、、「続きが見たーい」と思ってしまうのだが、野暮はいけませんね。フランス映画のようにオシャレにfin。

(あさひかわ新聞 6月12日号 連載『アールブリュットな日々」より)

各地に広がるアール・ブリュットの輪

「各地に広がるアール・ブリュットの輪」

 昨年のクリスマスに高知まで行った。アール・ブリュットを専門とする美術館のオープニングがあったからだ。この美術館の開設に当たっては、全国各地のアール・ブリュット関係者を招集して1年間もの検討会が行われ、私もそのメンバーとなっていたこともあって、お祝いに駆けつけた。



 一昨年、パリで行われた「アール・ブリュット・ジャポネ展」が大成功を納めたが、同時に価値が高まった作品群の行く末を案じることとなった。当初は作家に作品を返却することとなっていたが、それでは作品が散逸してしまう。また、作品そのものの保存管理が作家にとって負担となっているケースが多かったので、日本のアール・ブリュットを支援してきた日本財団が主体となって収蔵し保存管理をすることが決まった。

 美術作品を保存管理するというのは簡単ではない。永久にとはいかないまでも、出来る限り現状を維持しなければならないのは大変なことだ。温度、湿度の管理から、作品のダメージを抑えるような展示の期間や配置の配慮。当然、年月が経てば修復作業も必要となる。

 日本財団が作品の保管をして美術館に貸し出すという形式の美術展は、埼玉県立美術館での「アール・ブリュットジャポネ展(凱旋展)」など、各地 で開催されている。さらにこのコレクションを最大限生かす方法として、大胆にも全国各地に美術館を創設しようという機運が盛り上がって、1年前に検討会なるものが出来たのだった。

 モデルケースとなったのは滋賀県の近江八幡市にあるボーダレス・アートミュージアムNO-MAだ。現在の日本のアール・ブリュットシーンを切り開いた美術館である。古い町家を修復して活用しているところもユニークで注目を集めている。このように地域にある資源を生かした美術館開設をキーワードとした。

 高知に開設された美術館は「藁工(わらこう)ミュージアム」と命名されている。土佐漆喰の倉庫群は藁を保管するものだったらしい。この倉庫群をアートゾーンとして改修したほか、飲食やイベント・映画鑑賞に使えるスペースなども備え、充実した内容となっている。

 5月には宮崎駿監督作品の「崖の上のポニョ」のモデルになった広島の鞆の浦(とものうら)にも美術館がオープンする予定だ。今年、アール・ブリュットを巡る日本各地の旅を楽しんでみてはどうだろうか。
あさひか新聞 3月13日号「アールブリュットな日々」より

帽子おじさん宮間英次郎 弾丸ママチャリライダー

帽子おじさん宮間英次郎 − 弾丸ママチャリライダー 

 先日、旅行中のSさんから嬉しいメールが届いた。「横浜中華街で偶然にも「あの人」を発見!」というものだった。添付された写真を見ると、中華街のネオンをバックに奇抜な衣装、派手な帽子をかぶり颯爽とママチャリに乗る老人だった。一目瞭然!「あの人」とは宮間英次郎さんだった。


(あさひかわ新聞社記者 柴田氏撮影 2011年)

  私が宮間さんを訪ねたのは6年前。幸運にも、奇人研究をしている方の協力で連絡をとることが出来たのだった。小雨降る中、待ち合わせ場所に普段着で迎 えに来てくださった。宮間さんは、私が傘を持っていないのを見るとスッと傘をくれました。見ると、自転車の荷台には何本もの傘をくくり付けてあり、「傘な らいくらでも手に入る。そこらに捨ててあるから」と言う。都会ならではのリサイクルだ。宮間さんのお心遣いがとても嬉しかった。

  宮間さんは横浜市の寿町という、いわゆるドヤ街に住んでいた。この街に入ると、何か空気のどよみというか、閉塞感のようなものを感じる。日中だったた めか人影も少なく、陰気さを一層漂わしていた。一角の古いビルを登っていくと3畳ほどの部屋がいくつもあり、その一室に宮間さんはお住まいになっていた。 宮間さんは、人生の大半を都会の日雇い労働に従事し、ドヤ街を転々と移り住んでいるという。

 「さて、いくかな」というと、宮間さんはド派手な婦人服を着だした。胸に詰め物をして、ふくよかな胸を演出すると、今度はビルの屋上に向かう。そこに は、宮間さんが「帽子おじさん」と言われる由縁となった、大きな帽子がいくつも置いてあった。部屋が狭いので帽子は屋上で保管しているという。宮間さんの 帽子をかぶらせてもらうと、ずっしりと重たく首がもげそうになる。街で拾った廃品がてんこもりでくっつけられているのだから、重たくてあたりまえだ。70 歳を超えた人がこれをかぶって自転車をこいでいるということがとても信じられない。


(帽子をかぶらせてもらった私と宮間氏 2006年撮影)

  中華街に向けて自転車を走らせた。人影が多くなるに従って宮間さんに周囲の注目が集まっていくのが分かる。人々は目の前を通り過ぎていく不思議な格好のおじさんに唖然としながらも、とてもラッキーなものを見たという幸福感が漂っている。


(周囲の注目を集める宮間氏 2006年撮影)
 
 雨の中、遠く小さくなっていく宮間さんの背中は、今の社会に風穴をあけていく弾丸のように見えた。

(あさひかわ新聞 2月14日号 工藤和彦連載「アールブリュットな日々」より)
 


日本人の信仰とアール・ブリュット

「日本人の信仰とアール・ブリュット」

 日本には昔からアール・ブリュットの概念があったと私は考えている。だが、日本人と西洋人では信仰が大きく異なり、両者の思考に大きな違いがあるので、これを証明するのはとても難しい。

 日本では、「八百万の神」(やおよろずのかみ)というように、数えきれないくらいの神様が森羅万象に存在する自然信仰(アミニズム)がベースであるのに 対し、西洋では「神」の存在は絶対唯一である。「木や川、山に神がいる」と西洋人に話してみたところで、「神はいったいどこにいるのか?」と疑問に思うよ うだ。「存在そのものが神」と言っても理解しがたいのだ。

 日本の芸術には自然を意識したものが多い。例えば「茶の湯」である。人工の空間に自然の移ろいを取り込み「わび」「さび」といった日本独特な美意識を体現させる哲学的な表現行為である。

 表現という点では日本古来の自然信仰と密教が結びついて、「空」(くう)の状態が日本ではとても尊ばれている。「空」とは簡単に言ってしまえば「無」の 状態である。「無心」「無我」「無欲」「純粋」「無垢」「素朴」というように、あまり加工されていない「無」に近い存在のものを日本人は尊ぶ傾向にある。 だからといって何もしないのがいいのかと言えば、そうではない。自己の利益や世間のしがらみに左右されることなく物事に没頭している姿というものに神々し さを感じるのだ。

   例えば、諸国を行脚し、粗彫りによって木に神仏の様々な表情を刻んだ円空(1632年―1695年)は、生涯に12万体もの仏像を彫ったとされている。 夥しいほどの創作である。日本人の感覚としては「無我」「無心」の境地に達しようとして円空が彫り続けたことは理解できる。誰も量産して金儲けしていると は思わない。円空人気が今も高いのは、目指すところが「無」であり、その造形の中に自然(神)を見いだすことが出来るからだ。

 山下清が世間に知られ、人気を博した背景には、山下清の作品に「素朴」「純粋」「無垢」や、一枚一枚の紙片を貼付けて作品を仕上げるという途方も無い行為の中に「無我」「無心」を見いだしたからだろうと私は思う。

  私は西洋のアール・ブリュットの概念と日本の「空」という考えには、多くの共通点があるのではないかと考え始めている。

(写真は日本を代表するアール・ブリュット澤田真一氏の作品。ひとつひとつのトゲを無数に付けた造形。どこか神々しさを感じる。窯場には沢山の作品があり、薪窯での焼成を待っている。)

 ※あさひかわ新聞 2012年1月17日「アールブリュットな日々」に掲載した文章です。

福祉に育まれた日本のアール・ブリュット

「福祉に育まれた日本のアール・ブリュット」

 1930年代から戦後間もなくまで、芸術の専門家たちは、山下清をはじめとした日本のアール・ブリュットに興味をもっていたようだ。しかし山下清の爆発的な人気に伴い、福祉分野の人達が障害のある人たちへの理解を促進する手段として、障害のある人たちの芸術活動を大衆に広めた。これによって当初は「特異な芸術性」を重視していた専門家たちは、次第にその興味を失うこととなる。これは「特異な芸術性」への専門家たちの興味から発展した西洋のアール・ブリュットと大きく違う点だ。

 日本におけるアール・ブリュットの発展は福祉分野が現在も牽引役となっている。近年になって西欧のアール・ブリュットが日本で紹介され、日本の作品が海 外で評価を受けるようになって、芸術を専門とする人や機関が関心を持つようになってはいるものの、中心的な役割を担っているのは地域の福祉機関なのだ。

  福祉分野の人達がアール・ブリュットの普及活動をすると、「アール・ブリュット」は「障害者の芸術」という間違った認識を、意図せず世間に浸透させてしま うことがしばしばあって残念にも思う。だからといって福祉分野の人たちがアール・ブリュットに関わっている事がマイナスに作用しているかというと、決してそうでは無い。

  そもそも「アール・ブリュット」とはフランスの画家、ジャン・デュビュッフェが提唱した言葉で「生(き)の芸術」が直訳だ。簡単に言えば流行や教育、 文化などによって影響されていない表現ということである。そのようなアール・ブリュットの作品を理解するのは難解で、芸術を専門とする人達の解説や既成概念などから離れた部分での感性が、まずは必要となる。現代芸術の成り立ちが分からずともいいのである。

 アール・ブリュットの発見、その最前線にいるのはもっとも作者の近くに存在している人である。「なんだか分からないが、これは凄い」というような驚きが何より大切で、その感覚を他者と共有して広げている福祉分野の人達のエネルギーは日本のアール・ブリュットを根底から支えている。今や独自の発展を遂げた日本のアール・ブリュットは、その多様性で世界を驚かせているのだ。

あさひかわ新聞 2011年12月13日発行「アールブリュットな日々」より

写真:アール・ブリュットジャポネ展(日本巡回展)の公式図録。パリで行われた「アールブリュットジャポネ展」の全作家作品を網羅した貴重な一冊。帯にある「障害者芸術」の文字からは福祉の財源からの資金援助が垣間みられます。日本のアール・ブリュットは福祉の人たちの情熱と行動力、工夫によって現在の広がりを保っており、僕はこれはとっても凄い事だと思うのです。なぜなら、フランスは芸術文化に対して国家予算の約1%を使っていますが、日本はそれに比べて国家予算の約0.1%にしか過ぎません。芸術文化が軽んじられている日本で、「アール・ブリュット」の存在を知らしめ、維持していくのはとっても大変な事なのです。


式場隆三郎の視点

「式場隆三郎の視点」

 山下清の理解者に式場隆三郎(1898-1965)がいる。式場は精神科医であったが、人間の尊厳を主題にした武者小路実篤らの作家集団「白樺派」に傾 倒しており、柳宗悦、浜田庄司などが提唱した「民芸運動」(地域に埋もれている無名の職人達が作った民衆的工芸品のもつ美を広く世間に伝えようとする運 動)にも参加している。
 式場は山下清の才能を発見し、後に保護者となって山下清を画家として大成させた。プロデューサーとしての式場に対しては「障害者を利用した自身の売名行為だ」とか「社会に対して障害者への理解を向上させるために山下清を利用した」など言われることもしばしばだが、私はそうは思わない。式場の基軸には「モノを創造するという人間の能力への尊敬」がまずある。そして個々が抱える人生での悩み、苦しみ、怒り、喜び、病気、障害などから作り上げられた「人生哲学」が創造する行為にどのように作用しているのかに興味を持ち研究している。これは山下清の放浪記や、ゴッホの書簡を中心とた著書「炎の画家ゴッホ」でも伺えるように、出来る限り本人の言葉でありのままの姿を伝えようとしている。
 優れた才能を持ちながらも自分ではそれにまったく気がつくこと無く終わってしまう人達の存在を知っていた式場は「なんとしても山下清の存在を広く世間に知らしめ、このような人達の存在を伝えたい」との熱意を持ったのだろう。
 しかし、世間の山下清人気にこれほどまで火がつくとは、式場自身も想像していなかっだろう。「社会」と「山下清」を繋ぐパイプとして機能していた式場にとって社会の要求に対して「ありのままの山下清の魅力」を伝えることは、その山下人気と共に難しくなっていったのではないか。
 ベレー帽をかぶり風景をスケッチしている晩年の山下清の写真を見るにつけ、私は憂鬱になる。そもそも山下清はスケッチの必要性を感じていないはずだし、放浪生活の中から湧き出て来るイメージが山下清芸術の真骨頂なのだ。しかし敗戦のどん底から抜け出し、経済が成長して来た時代背景にあっては「どんな人で も頑張れば偉くなれる」というような社会的なメッセージを世間が好んだ。
 「式場隆三郎が山下清を利用した」というよりも、「世間が山下清を必要とし、式場もついに世間の求めを阻止できなかった」という言い方が正しいと私は思っている。

<写真>1985年(昭和60年)私が15歳の頃に、家の近くの百貨店で開催された山下清の展覧会のチラシ。主に地域の百貨店などで全国巡回され大衆の人気を集めた。しかし、これによって作品の劣化が進み、今日では当時の鮮やかな作品の色合いは無くなってしまっている。  

あさひかわ新聞「アール・ブリュットな日々」(2011年11月8日号掲載記事)

<追記>25年前の山下清展はよく覚えています。当時は山下清を題材にしたテレビ番組(芦屋雁之助主演 裸の大将放浪記)があって、極端な演出で「心温まるヒューマンドラマ」の主人公としての山下清のイメージを作り上げていました。当時の私もその主人公のイメージが強く展覧会を観ていました。しかしそのイメージはまったく違っているかというと、そうでもないようにも思えます。山下清の魅力、素質にもそういったものが少なからず備わっていたのは間違いないことでしょう。そうでなかったら人を惹き付けることは出来ません。それは長期の放浪生活で実証されています。多くの人に希望を与え、愛された人物として伝説的に語り継がれるのは素晴らしい事だと私は思います。
 ただ、しっかり本来の「山下清」について考え、知ることも大切なことなのです。

裸の大将と山下清

 「裸の大将と山下清」

 日本には日本独特のアール・ブリュットの解釈、進化があるのではないか、そんな事を今、私は考えている。のらりくらりだが、しばらくその考えをこの紙面でまとめたいと思う。

 日本で最も早期に発見され、日本史上で最も知られてい るアール・ブリュットの作家は山下清だろう。しかし、私たちが想い描く山下清はテレビや映画などのために過度に演出された「裸の大将」でしかなく、本来の 山下清をあまり知らない事に気付く。
 まずは山下清について考えてみたい。

 山下清は1922年東京に生まれる。10歳で父が他 界。12歳になると勉強について行けず、千葉県の知的障害児養護施設八幡学園に入所。他生徒に暴力をふるう問題行動から園長の発案で貼り絵に取り組む。 「踏むな 育てよ 水そそげ」という学園の教育理念によって、教員達は辛抱強く山下清の個性を伸ばすように創作活動に寄り添った。また、顧問医の式場隆三 郎の指導も受ける事となる。式場は精神科医でゴッホ研究でも有名な人物で、山下清の創作活動への影響力が最も強かった人物である。
1937年に早稲田大学心理学教授戸川行男が八幡学園の園生の作品で「特異児童労作展覧会」を開催、山下清の貼り絵が脚光を浴びる。

 山下清は18歳から33歳までの15年間に、一回5ヶ月から3年近くにも及ぶ放浪生活を8回ほど繰り返す。八幡学園では放浪から戻って来る山下清を注意はするものの温かく受け入れている。放浪日記や貼り絵は学園にて創 作されており、旅先ではほとんど描いてはいない。山下清にはもともと特異な才能があって、物事、図像を鮮明に何年も膨大に記憶することが出来たのだった。

 アメリカ「ライフ誌」が山下清の存在に興味を抱いた事から、朝日新聞社が1954年「日本のゴッホいまいずこ」と見出しをつけて当時、放浪生活をする山下清を記事にする。このため山下清の存在は国内に知れ渡り、4日後には鹿児島県内で保護されている。そして、国民的な人気者となる。1956年には大丸東京店で一ヶ月「山下清展」が開催され80万人もの動員となる。また、1958年、小林桂樹主演映画「裸の大将」が封切られて大ヒット。その後はテレビ出演や展覧会の開催などが続いた。1971年7月突然の脳出血で倒れ、永眠する。享年49歳だった。

 山下清の人生は、関東大震災、太平洋戦争、戦後という時代背景の中で数奇な運命をたどったものだった。

(あさひかわ新聞 10月11日号「アールブリュットな日々」掲載)
写真:山下清関連の図録、著書の一部

子供の創造とアール・ブリュット

 アール・ブリュットとは、既存の美術の概念や流行などに影響を受けていない超個人的な発想から生まれた創作なのですが、その定義はとても難しいです。
 しばしば子供の作品はどうかと質問されます。  
 子供の作る造形や絵画には正直、驚かされることがあります。身の周りの極端に狭い社会においての情報や体験した感覚を重視した、衝動に押し進められるままの創作行為だけに、その作品は純真や素朴、まさに汚れの無い無垢という表現がふさわしいものです。人がものを作るという根源的な種のようなものかもしれません。実際に子供の絵に憧れを抱くという芸術家も多いものです。
 
 私が陶芸を仕事にしていることもあって、我が家の子どもたちは小さい頃はよく仕事場に遊びに来ては、へび、おすし、温泉、かたつむり、ロボットなど日常の関心事を思いつくままに、次々と粘土で作ったり、また絵を描いていました。私はこれらの造形物に非常に関心を持っており、現在でも大切なコレクションの一部となっています。
  
 子どもの作品とアール・ブリュットには類似する部分はあるのですが、アール・ブリュットではありません。決定的に違うのは成長に伴い、急速に表現方法が変化してしまう点です。現に我が家の子どもたちも小学校に進学すると、学校での美術教育や漫画、アニメへの関心などによって、多様な表現方法を知ることに なり、著しく変化しました。また、ものづくりに対する関心もそれほど熱心ではなくなってきます。多くの物事への関心を持つことは子どもにとって大事な成長の過程であり、アール・ブリュットの作家のように執着して飽きずに自己表現を長年繰り返していくのはとても難しく、希なことなのです。
 また、人生経験による哲学的な思想を子供は持っていません。人生の喜び、悲しみ、怒り、物事の捉え方、それが作品ににじみ出ることがアール・ブリュットでは大変重要な要素だと私は思います。
 いずれにしても、アール・ブリュットかそうでないかは、あまり重要な事ではありません。「表現」というものは人間にとって崇高な行為であって、その尊厳を大切に見守っていきたいものだと私は考えます。

絵:工藤山花「自転車」:紙・水彩絵の具 2003年
(当時3歳。自転車 に乗れる事がさぞかし嬉しかったようです。 )

あさひかわ新聞2011年8月9日号掲載「アール・ブリュットな日々」より

 つい最近、子どもたちと、ディズニーの「塔の上のラプンツェル」を見ました。素敵なファンタジーでした。中でも私がとても関心を持ったのは、生まれて間もなく塔の上に閉じ込められて18歳まで暮らしていたラプンツェルが部屋中に描いていた絵です。実際にこの絵があったら、是非見てみたいと思いました。きっと、独創性に溢れたものになっていることでしょうね。(妄想)

旅の音楽家 丸山祐一郎

  13年前、旅のフェリーの中で、海を見ながらギターを弾いている不思議な人と出会いました。旅先での出会いは妙なもので、それ以来の長い付き合いとなりました。  

“旅の音楽家”だという丸山祐一郎さんは、ブラジルでボサノバギターを学び、その時に知った「ビリンバウ」という弦楽器の奏法もマスターしました。足を使った格闘技カポエラの伴奏に使われる、弓とひょうたんで出来た世界最古の一本弦の楽器です。

 ビリンバウによって民族楽器への意識が高まり、世界各国の楽器の収集、演奏を始めます。これによって他に類を見ないステージが確立されました。

 彼の音に対する執着は楽器創作にまで及んでいます。四本の空き缶からなる「水カンリンバ」もその一つ。空き缶の中の水が「コポコポ」と移動する音に加え、缶を弾く「チュイーン」という音が水に反響することを利用したものです。この楽器の作り方は公表されており、全国各地に愛好者が広がっています。

 人に音楽を聴かせるのは想像以上に大変なことだと私は思います。彼の依頼者は様々で、福祉施設だったり、小学校、ホームパーティー、1000人規模のコンサートなど、観客の年齢層が幅広いのです。雰囲気を察知しながら次の演奏を組み立てて、時には飽きさせないように小道具やマジックまで飛び出します。

 大道芸のような要素も出しながら相手に寄り添い、自分の方に引き込んで強いメッセージを伝えていく、それが彼の流儀です。「素敵な虹も、水がなくてはできません。水の音に耳を澄ますと、自然の素晴らしさ、命の尊さが聞こえてきます。さあ! 一緒に歌いましょう」。子どもも大人も、まるで魔法にかけられたように大合唱してしまいます。
 感受性の高い子どもたちは、すぐに丸山さんのことを大好きになります。それは彼自身が歳をとっても感性を磨き、自分にしかない世界観を構築し、ある意味わがままなくらい相手を引き込んで楽しんでしまうからでしょう。ガキ大将が遊び方を教えて人気者になるような感じかもしれません。
 私もこういう大人になれないものかと彼を見ているとつくづく思います。

(あさひかわ新聞 2011年7月12日発刊「アールブリュットな日々」より)
 丸山祐一郎&こやまはるこブログ
水カンリンバの作り方(pdf)